原爆投下は「正しかった」のか 日本と異なる視点、テニアンで学ぶと

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テニアン=花房吾早子 牧野愛博
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 広島市の平和記念式典で黙禱(もくとう)が捧げられていたころ、米軍が原子爆弾を組み立て、積み込み、飛び立った場所に、少しずつ人が集まり始めた。

 南東に約2500キロ離れた北マリアナ諸島テニアンに、原爆部隊の基地「ノースフィールド」の跡地がある。ここで午前10時(日本時間午前9時)から式典が開かれた。

 テニアン市が主催するもので、2005年に開かれて以来だ。当時20年ごとに開くことを決めた。蒸し暑く、日差しも強い中、花冠や貝のネックレスを着けた人や、制服姿の米軍人ら約200人が参列した。

 会場は、原爆をB29爆撃機に搭載した場所「原爆ピット」の周辺。今年、広島、長崎それぞれに落とされた原爆の原寸大レプリカが置かれた。

 式典では、島在住の米国人歴史家のドン?ファレルさん(78)が「二つの原爆によってたくさんの日本人の命が失われたが、米軍による日本本土への進攻を防ぐことができた」と基調講演した。

 テニアンのエドウィン?アルダン市長(55)は「かつて原爆が積み込まれたこの場所はいま、対話、学び、そして団結の場所へと生まれ変わろうとしている」とあいさつした。

 米空軍や海軍の制服を着た人々が耳を傾けた。米国、日本、北マリアナ諸島の旗が掲げられ、米国歌が流れると参列者のほとんどが胸に手を当てた。

 グアム北東部のアンダーセン空軍基地から参列したアンソニー?フォンタナタ大佐(47)は朝日新聞の取材に、「非常に厳粛な式典で、軍人として謙虚な気持ちにさせられ、心に響いた」と語った。原爆投下の正当性については、「答える気にはなれない。太平洋戦争で亡くなった人びとを追悼し、現在のパートナーシップを確認する行事だと考えたい」と話した。

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この記事を書いた人
花房吾早子
大阪社会部|平和?人権担当
専門?関心分野
原爆、核廃絶、ジェンダー、LGBTQ+
牧野愛博
専門記者|外交担当
専門?関心分野
外交、安全保障、朝鮮半島
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